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2022.4.30 | 健康情報

治療と関係ないけど大切な話

治療と関係ないけど大切な話

日本は聖徳太子が仏法を重んじた憲法十七条を定めたこともあり、仏教と密接な関係があります。
普段何気なく使っている、ありがとう・挨拶・縁起・我慢・油断・出世など挙げたらキリがないほど仏教から来ている言葉を使っています。

そんな仏教の基礎をまとめてみましたので、ぜひ自身の成長のためにも参考にしてみてください(^^)

◎仏教では私たちの欲の中でも代表的な五つを『五欲』といわれ、そして人間は常に五欲で動いている、と説かれています。

五欲とは

【食欲】【財欲】【色欲】【名誉欲 】【睡眠欲】の五つです。

【食欲】とは、食べたい、飲みたい

【財欲】とは、お金が欲しい、お金だけでなく、車が欲しい、服が欲しいといった物欲も、この財欲に入ります。

【色欲】とは、男性なら女性が欲しい、女性なら男性が欲しい、と異性を求める欲。

【名誉欲】とは、人からほめられたい、認められたい、嫌われたくない、という欲。

【睡眠欲】とは、寝ていたい、楽したい、という欲

朝起きてから夜寝るまで、私たちはこの五欲に追い立てられているのではないでしょうか。

朝目覚まし時計で起こされてまず思うのは「ねむたい」「起きたくない」という【睡眠欲】。
それでも起きるのは、遅刻すると恥ずかしいという【名誉欲 】、仕事行かなかったらお金が入らないという【財欲】に動かされてのことです。
それから何着ていこうかと【名誉欲】が動き【食欲】が動いて、途中のカフェに寄る。
通勤中はきれいなOLに目がいって、【色欲】が動く。
職場では上司相手に、【名誉欲】が動き、ボーナス目当てに成果出そうと躍起になるのは【財欲】です。
夕方にはビール飲みたいと、【食欲】が動き、疲れとアルコールで眠くなって布団に入るのは【睡眠欲】。

まさに一日中、五欲の追求しか頭にない。
たまに悩むのは「どの欲を取るか」の選択のときです。

あの人に告白しようかと思いつめるのは【色欲】ですが、断られたら格好悪い、職場に居辛いと躊躇するのは【名誉欲】です。
【色欲】と【名誉欲】を天秤にかけているのです。

ダイエットしたいと思うのは【名誉欲】であり、
それでもケーキ食べたいから食べちゃおうかと悩むのは【食欲】です。
この場合は【食欲】と【名誉欲】を天秤にかけているといえましょう。

世に「克己心」といわれるものも、それは【名誉欲】だったり、仕事熱心な人だといっても、その原動力は【財欲】だったり、ステキな人だといっても、その人をそうさせているのは【色欲】だったりです。

五欲のとりことなって、酔生夢死するのがわれわれの実態と説かれます。

◎108の煩悩の中でも特に私たちを苦しませるものが3つあり『三毒の煩悩 』といいます。

その三つとは、
○貪欲(欲の心)
○瞋恚(怒りの心)
○愚痴(ねたみ、そねみの心)

【欲】とは、金がほしい、ほめられたい、好かれたい、という心です。
それを得るためには人はどうなってもいい、自分さえ儲かればいい、自分さえ認められたらいい、という心です。

【怒り】人間は腹が立つと、言ってはいけないことを言い、やってはいけないことをしてしまいます。
冷静な時は、こんなことを言ったら相手との関係が壊れる、こんなことをしたら相手から嫌われる、と慎んでいますが、腹が立つと自制心を失ってしまうと、言ってはいけないことを言う、やってはいけないことをする。
その結果、人生を台無しにしてしまうのです。
一瞬の怒りで、会社を首になる、家庭が崩壊する、といった事態が引き起こりますから、実に恐ろしい心です。

【愚痴】とは、うらみ、ねたみ、そねみ、憎しみの心です。幸せそうな人を見るとおもしろくなく、ねたましくなってくる心です。
成功して意気揚々としている人を見て、苦々しく思う心です。

同期の友達が先に出世すると、どうでしょう。
友達なのですから、一緒に喜んであげればいいのに、素直に喜べない心が起きてきます。
「なんでこんな心が自分にはあるんだろう」と我ながら醜い心が嫌になります。
「よかったなあ、おめでとう」と口では言いながら、心の中に渦巻いている醜い心が表情に現れて笑顔が固くなっていないだろうか、と気にしています。

また【愚痴】とは、人の不幸をクスクス笑う心でもあります。
人が失敗して狼狽している姿を見てひそかにおもしろがる心です。
不幸な人を見て「かわいそうに」と口では言いながら、心では何か愉快な気持ちがこみあげてきます。
人の幸福をねたむ心も醜いですが、人の不幸をおもしろがる心はもっと醜く感じます。自分でもねたみの醜さが分かるから、人には知られないよう、隠そう隠そうとするのです。

この三つの心が私たちの人生を苦しませているのだよとお釈迦様は説かれました。

普段私を苦しませているのは、「あの夫だ」「うちの妻だ」「分からず屋の上司だ」「勝手な部下だ」「社会のせいだ」「政治が悪いからだ」あるいは「病気だからだ」「貧乏だから」「容姿が良くないから」などと思っています。

しかし仏教では、それらは苦しみの原因ではありませんよと説かれているのです。

「夫のせいで苦しんでいる」と思い込んでいますが、本当は夫のせいではなく夫にイライラする自分の中の怒りの心、もっとこうして欲しいのにと夫に求める欲の心が自分を苦しめているといえるのです。

貧乏が苦しませているのではなく、「お金があれば、あれが買えるのに」と欲する欲の心や、人の収入と比べて妬んだりする愚痴の心が自分を苦しませているのです。

何を手に入れても「もっと欲しい」と欲の心が出てきますので常に不満は絶えません。

欲の心=満足を知らない心 なのです。

思い通りにならないと出てくるのが怒りの心です。

人間関係も容姿も才能も、毎日の天気でさえ、思い通りになることなどめったにないのですから、思い通りにならないからと怒りの心をおこしていては、その人は常時怒っていなければなりません。

人と比較して妬んだり、嫉妬したりする心が自分を苦しませています。
これは自分の心を真面目に見つめている人なら「確かに自分を苦しませている原因は、自分の外側ではなくて、内側だな」とわかるかと思います。

仏教では、私たちの人生を苦しみの波の絶えない海のようなものだと例えられますが、その「波」の正体は「煩悩」です。
自分の心の中が自分の人生を苦に染めるのだ、と教えられているのです。

◎【因縁】

仏教に『怨憎会苦』という言葉があります。

嫌な人と会わねばならない苦しみのことです。

嫌いな人と接するとき、「あいつのせいで苦しんでいるという思考にとりつかれないこと」
これを知るか知らないかで大違いになる、この課題の最重要ポイントです。

この思考を仏教では「他因自果」といいます。

他(あいつ)の因(せい)で自(わたし)は果(こんなひどい目)に遭っている、という思考です。
この思考に陥ると大変苦しむことになります。

仏教ではこの思考を「愚痴」(真理に暗く、無知なこと。道理に暗くて適確な判断を下せず、迷い悩む心の働きをいう。)といいます。

私たちを苦しめているのは「あいつ」ではなく、「あいつのせいで苦しんでいるという思い」なのです。

そんなこと言われたって、事実あいつの言動によって苦しまされているんだ、誰が聞いてもあいつの言動の方がおかしい、俺だけじゃない、みんな迷惑しているんだ、たとえば最近こんなこともあった……
とその方が語る内容は説得力があり、誰が聞いてもその方の言われる「あいつ」の言動で苦しまされているとしか思えないとします。

それでもなお「あいつ」のせいではない、と言えるのか、お釈迦さまにお聞きすると、釈迦は泰然と「そうですよ、あいつのせいではありませんよ」と答えられます。

ではあいつのせいでないというのなら、オレが今こうして苦しんでいるのは誰のせいなんだ、とお釈迦さまに問い質すと、釈迦は厳然とこう答えられます。

「因縁のせいなんですよ」

この「因縁」とは何なのでしょうか。
因縁とは因と縁のことで、仏教では一切の運命は因と縁が結びついて起きると説かれます。

因だけでは結果は起きません。
縁だけでも結果は起きません。

因と縁とそろってしまったときに結果が起きるのです。

たとえば私がA氏という上司のパワハラで苦しんでいるとします。
この場合、オレが苦しいのはA氏のせいだ、と恨んでしまうのですが、この場合、「A氏」は「縁」なのです。
では「因」は何かというと、それは「私」です。
「私」という「因」と「A氏」という「縁」がそろうと、「私が苦しむ」という「結果」が起きるのです。
私の何らかの言動が、A氏には癇に障るのでしょうね。
上司がB氏やC氏だったら私と同じ言動をしていても何らトラブルにはならない、上手くやっていける、しかしA氏だとうまくいかない、そういうことがあるのです。

またこうもいえます。

A氏は私が部下ではなくて違う人が部下だったら腹を立てずにやっていける、しかし部下が私だとどうにも我慢できなくなる、そういうことがあるのです。
これはもう私とA氏との因縁なのです。

ちょうど桜の木は春という縁に触れると花が咲くという結果が表れるようなものです。

桜の木と春の因縁で桜の花が咲き、柿の木と秋の因縁で柿の実がなるように、私とA氏との因縁で、私が苦しむという運命が起きているのです。

ではこの苦しみを変えるにはどうしたらいいのか。
因を変えるか、縁を変えるか、どちらかを変えることによって結果は必ず変わっていきます。

◎自因自果とは、自分の蒔いた種[因]によって自分に起こる幸・不幸と言う運命[果]をて受けている事をいいます。自業自得とも言います。
仏教で、他因自果は万に一つ億に一つもありませんと説いています。

例えば、高齢者が老後の資金にということで、貯めておいた貯金が、投資話に騙されて詐欺集団に根こそぎ取られて今苦しんでいる方がいるとします。

あるいは、DV男と結婚してしまったがために今悲惨な目にあっているという話もよく聞きます。

こんな場合は、「詐欺をする者がいたからこんな事になった。悪いのはこの詐欺をした集団だ」と
あるいは「このDV男のせいでこんなひどい目にあっているんじゃないか」
「奥さんの何が悪いんだ、全部この男のしている事じゃないか、この男の暴力で奥さんがひどい目にあってるんじゃないか」「この人が暴力振るうから私の人生はめちゃくちゃではないか」と

このような時は他因自果としか思えないかもしれません。

しかしお釈迦様は、それは[縁]です[因]は自分にあるのですよ。と説かれます。

詐欺集団は、この世の中にたくさんいます。
何千何万とそういう集団がいて、また手当たり次第に電話かけたりして騙す相手を狙っているわけです。
なぜ自分が騙されてしまって今苦しい目に合っているかと言うことです。

目先の欲に囚われて投資話に乗っかった自分がバカだったと、うまい話には裏があるんだと反省したならば、今度同じような投資話持ってきた人が現れても同じような失敗は起きません。

DV男もこの世の中にたくさんいます。
そういう男がたくさんいても、その男によって苦しむ人はほんの一部です。
なぜ私がそんな目にあったのかということです。

なぜ私にそういう運命が起きたのかと言うと、そういう男を選んだという自分の種まき[因]があったという事です。
そこを反省する視点がなくて全部あいつのせいだとなっていたら、また同じ失敗をします。
DV男で苦しまされて離婚した人が、次に再婚した相手がまたDV男だったということで離婚をして、2度DVが理由で離婚した後、次に付き合った男性がまたまたDVを始めたと、このような女性がいるんです。
なぜそうなるかと言うと、そういう人を好きになるような業[カルマ]を持っているからです。

もちろん詐欺をする者、DVをする者は悪でしっかりと取り締まらなければいけません。
しかし、詐欺集団もDV男も[縁]で、うまい投資話しやDV男を好きになる自分[因]を変えなければ、再び同じ[縁]が近付いて来た時に同じ[果]が起きてしまうのです。
自分の反省すべき事柄が分かれば、少なくとも自分にそういう結果が起きる事は無いわけです。

┌─┐
│因│自分がまく種(身・口・意 (行い・言動・意思) )
└┬┘┌─┐
  ├─┤果│咲く花(結果)
┌┴┐└─┘
│縁│土・水・光(間接的な条件・事情)
└─┘

◎四諦(四聖諦)とは
・どうして人生には苦しみがあるのか
・どうすれば苦しみ悩まされないで安らかに人生を送ることができるのか

という人間誰しもが持つ疑問に答えるものです。
ちなみに、四諦の「諦」という漢字が「あきらめる」の意味で使われますが、仏教において「諦」は「あきらめる」の意味ではありません。
四諦の諦の意味は「真理」「この世の変えられない真実」です。
または、「あきらかにみる」とも解釈されます。

四諦
●苦諦…この世は自分の思い通りにならず苦しみばかりの世界

●集諦…苦しみばかりの世界であるのは、自分の欲望・煩悩が原因

●滅諦…この世の真理を知り、煩悩を消し去り、正しい、行動をすれば苦しみから解放される

●道諦…正しい行動とは八正道

[苦諦]四苦八苦
生苦…苦しみの多いこの世界に生まれついたということは、生まれたこと自体が苦しみという意味や生きていること自体が苦しみだと解釈されます。
老苦…老いていくことの苦しみ
病苦…病をする苦しみ
死苦…死は必ずやってくるという苦しみ

愛別離苦…愛する人といつかは別れがやってくると言いう苦しみ(あいべつりく)
怨憎会苦…腹が立つ、憎い人間と生きていたら合わないといけないという苦しみ(おんぞうえく)
求不得苦…求めるものが手に入らない苦しみ(ぐふとくく)
五蘊盛苦…私たちの心と体(=五蘊)が苦しみを生む原因だということ(ごうんじょうく)

[集諦]
「人生に苦しむ原因は私たちの欲望(=煩悩)だ」という意味です。

どんな苦しみもその原因は、私たちの欲望であると考えたら苦しみからは解き放たれると言うのですが、自分たちのせいではない苦しみだってあると思った方もいるかもしれません。
例えば、心から愛する人(ご両親、お子様、伴侶)やペットが、突如として病に倒れ、若くして亡くなったと考えてください。
この苦しみの原因は愛する人の命を奪った病が原因と考えるのが自然です。
しかし、お釈迦様はこの愛する人を失った苦しみ(愛別離苦)の原因も自分の欲望だというのです。(仏教では煩悩・渇愛と言う)
お釈迦様はなんて冷たいんだと感じますが、集諦の考えから紐解くと、この愛する人との不幸な別れによる苦しみの原因をこのように考えます。

・人の命は有限で、誰しもがいつかは死ぬ(=真理)
・その当たり前は頭でわかっていても、愛する人との幸せな日々を送っていると「いつまでもこの幸せが続けばいいな(欲望・煩悩)」が生まれる。
・愛する人との幸せな時間には絶対に別れが来るというこの世の真理が欲望や煩悩によって 見えなくなります。(永遠でなくとも、人並みに続くと考えるのは当たり前と思います)
・しかし誰しもが死ぬというこの世の変えられないルールからは逃れられない。
・逃れられないルールだとわかっていたはずなのに苦しむのは、欲望・煩悩がこの世の真理を忘れさせるから。
・つまり欲望・煩悩が苦しみの元凶このように考えるのが集諦です。

期待してしまう心・何かを執着する心は仏教では煩悩や渇愛、三毒の貪欲などと表現される言葉で表現されます。
この世の苦しみの原因が煩悩とわかると、次の滅諦でその苦しみから逃れることができるようになると言います。

[滅諦]
「苦しみの原因である煩悩を消し去り、苦しみのない境地に達する」という意味です。集諦で煩悩が原因だとわかれば、さらにその煩悩の生まれる原因を知って、それを解決すれば苦しみから解放されると考えるのです。
煩悩の生まれる原因は「この世には絶対に変えられないルール(=真理)を理解していないこと」とであると言います。
この世の絶対に変えられないルール、つまり真理を表す言葉が、諸行無常と諸法無我という2つの言葉です。

・諸行無常の意味は、「永久不変のものはこの世にない」という意味です。
私たち人間や動物は、生まれてから成長して、老いていって死んでいきます。モノもいつかは壊れます。
この世にある何らかの作用で形成されたもの(=諸行)は、一分一秒、0.00000何秒という刹那とも言えるこの瞬間でさえも変化し続けていて、常住であることは無い(=無常)のです。
この諸行無常の意味はそこから一般には次のように知られるようになります。
どんな人も物も永遠はないし、死ぬ。壊れる。
どんなに好きな人ももの事も、老いて醜くなるし、色あせる。
栄華を極めた人や団体もいつかは廃れていくこのようになるのです。

・諸法無我の意味とは、すべてのもの事(=諸法)は、互いに影響をし合い、何一つとして単体で存在する(=我)ものはない。実体はない。
このように諸法無我の意味は解説されます。
この世にある形あるもの、つまり「諸法」はこの世に永遠に存在する唯一絶対的な存在の「我」ではなく、あらゆる”因縁“によって生まれているというものを意味する言葉です。

[道諦]
「苦しみから解放された境地(=涅槃)に達するための正しい行動(修行)である八正道を行うこと」を意味します。
お釈迦様が説いたこの世の真理を理解し、正しい行動である八正道をすれば、苦しみから解放されるのです。

正見…正しいものの見方・考え方を持つこと偏った見方 (自己中心的な考え方)で物事を見ないこと

正思惟…怒りや憎しみ等の感情にとらわれず、正しい考え方で判断をすること、偏った考え方をせず善悪を正しく見極めること

正語…嘘や悪口、二枚舌は言わず、正しい言葉を発すること、正しい言葉遣いをすること

正業…殺生や盗みなど道にそれたことはせず、正しく生きること、煩悩のままの行動を慎むこと

正命…規則正しい生活を送ること

正精進…正しい努力をすること正しく善悪を見極め、善行する努力をすること

正念…正しい志、意識を持つこと

正定…正しい心の状態を保つこと正しい判定(座禅)を行うこと

◎十二因縁とは
お釈迦様が、初めて悟りを開かれた『初転法輪』で、私たちの生活する娑婆世界は
1.諸行無常:この世の中で常であるものはなにもなく絶えず変化している
2.一切皆苦:一切は皆苦であると知ること
3.諸法無我:本来、我となる主体はない

の三法印をお説きになりました。この三法印に
4.涅槃寂静:一切のとらわれやこだわりを離れた姿
を加えて四法印と呼び、これら三法印・四法印は仏教の根幹をなすものとされています。
仏様は、私たちに、実相をありのままに受け入れる事が苦を滅する第一歩であると説かれています。
また、私たちの心の状態に応じた、悟りへ導く手だてとして、『四諦・八正道』と『十二因縁』と『六波羅蜜』の法を説かれました。

『十二因縁』は、お釈迦様が人間の苦しみや悩みがいかに成立するか、その原因を十二の項目によって追求しました。
一切の現象は私たちの心に原因があり、現在、生かされている業(行為)が魂にすり込まれ、前世などの過去世を含めた時代の業にも影響しあって、現在のそれぞれの幸・不幸が決まるとされています。
諸法実相(すべての存在・ありのままの姿)をもっと深く理解させるために、縁起の角度から説かれた教えが『十二因縁』です。
この教えは、人間の肉体生成を十二種の法則に分類し、心の変化にも十二に分かれた因縁の法則があるという教えです。前者を外縁起、後者を内縁起と言いますが、その内容は、私達人間の肉体がどのような過程を経へて生まれ、成長し、老死にいたるかということを、過去、現在、未来の三世にわたって、千変万化する人間の心のありさまを示されたものです。
まず、最初に十二因縁の働きを簡単に示すと下記のようになります。

1.無明 ⇔ 2.行 ⇔ 3.識 ⇔ 4.名色 ⇔ 5.六処 ⇔ 6.触 ⇔ 7.受 ⇔ 8.愛 ⇔ 9.取 ⇔ 10.有 ⇔ 11.生 ⇔ 12.老死

上記は、これあるが故にこれあり、これ生ずるが故にこれ生ず(順観といい、1~12へと順番に見ていく様)
また、これなきが故にこれなく、これ滅するが故にこれ滅す(逆観といい、逆に12~1へと見ていく様)になります。

法華経『化城諭品第七』の中で、
及広說。十二因縁法。無明縁行。行縁識。識縁名色。名色縁六入。六入縁触。触縁受。受縁愛。愛縁取。取縁有。有縁生。生老死憂悲苦悩。
と説かれ、意味としては「及び広く十二因縁の法を説きたもう。無明は行に縁たり、行は識に縁たり、識は名色に縁たり、名色は六入に縁たり、六入は触に縁たり、触は受に縁たり、受は愛に縁たり、愛は取に縁たり、取は有に縁たり、有は生に縁たり、生は老死・憂悲・苦悩に縁たり。」となります。
ここで云う『縁たり』というのは、◯◯の縁によって生じたもの。言い替えると◯◯を条件として生じたものという意味です。
例えば、無明は行に縁たりといえば、『行』というものは『無明』という縁を介して生じたということです。ものごとが生ずるには、かならず原因(因)と条件(縁)がなければならないということです。
また、同じく経文に、
無明滅則行減。行減則織减。識減則名色減。名色減則六入滅。六入滅則触減。触減則受減。受減則愛減。愛減則取減。取減則有滅。有滅則生滅。生滅則老死憂悲苦悩減。
とあり、意味は、
「無明を滅すれば則ち行も滅す、行を滅すれば則ち識しきも滅す、識を滅すれば則ち名色も滅す、名色を滅すれば則ち六入も滅す、六入を滅すれば則ち触も滅す、触を滅すれば則ち受も滅す、受を滅すれば則ち愛も滅す、愛を滅すれば則ち取も滅す、取を滅すれば則ち有も滅す、有を滅すれば則ち生も滅す、生を滅すれば則ち老死・憂悲・苦悩も滅する。」
と説き、苦悩の根本にある無明を滅することが、一切の束縛から離れる根本であると説いています。

◯外縁起
人間を物質的面からとらえた考え方で、肉体はどのようにつくられてきたかを十二の段階から考えることです。
十二因縁の最初は1.『無明』です。無明というのは「明るくない」とか「無知」ということです。
私達の魂は、両親の夫婦生活という2.『行=行為』によって母親の胎内に宿り、3.『識』が生まれます。識というのは『生物の特性を備えたもの』ととらえ、不完全ながらも人間らしいものができてきます。
不完全な識がだんだんかたちを整えてくると、4.『名色』になります。
名とは無形のもので、精神や心の状態をあらわし、色はその逆の形あるもの、つまり肉体を指します。したがって名色というのは、魂の入った人間の心身ということです。
名色が発達すると六入、ここでは5.『六処』と呼び、眼、耳、鼻、舌、身、意、すなわち六根が調うということです。私達は、このような段階の状態で、この世に生まれ出てくると云われています。
五感と心が発達してくると、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚などをはっきり感じられるようになります。このように、名色と六処が互いに影響しあって感覚器官が発達した状態を、6.『触』といいます。
触の感覚器官がもっと発達してくると、感受性が強くなってきて、好き嫌いの感情がでてきます。この状態を7.『受』と言うのです。人間の年ごろで言えば、六、七歳ごろを指しますが、さらに成長すると、8.『愛』が生じます。この愛にはいろいろな意味がありますが、この外縁起では異性に対する愛情と考えてください。
異性への愛情が芽生えてきますと、自分のものにしたいという所有欲・独占欲がでてきます。それが9.『取』であります。
また、逆に自分の嫌いなものから、離れようとしたり、嫌ったりします。このような区別する感情が出てくることを、10.『有』といいます。
ここまでくると、人生のほんとうの苦しみというものがいろいろな形で襲いかかってきます。このように、さまざまな苦楽の意識を業=(行為)として魂に記憶し、このような意識で人生を展開することを、11.『生』といいます。
この『生』は本人だけでなく、子々孫々の『生』にも影響を与えていると考えることもできます。仏法では、『無明』をなくさない限り、親や先祖の『無明』が、子や孫へと受けつがれ、いつまでも、東縛やとらわれから逃れることがなく、苦楽の意識を継続してしまうのです。
そして、それは一生続いて、最後に老いて死を迎える12.『老死』に至るわけです。
以上が、私達人間の肉体を中心とした外縁起による十二因縁です。

◯内縁起
内縁起は、心の働きを中心に、十二の項目について検証します。
最初に1.『無明』ですが、これは正しい世界観や人生観を知らない人です。また、知っていても無視した生き方をすることです。
無明(無知)のために、真理〈宇宙意識を含めた大自然の原理原則〉に合わない行動をしてきた、これが2.『行』です。ただ、この場合の『行』は、自分自身だけの行いだけにとどまらず、解釈においては、「人間の行為が永い間、魂にすり込んだ、過去の行い」を含んでいます。よく世間で「親の因果が子に報い」とか「因果は三代めぐる」などと言いますが、これは潜在的に形成されているものを含んで言うのでしょう。
次の3.『識』は、外縁起で述べた眼・耳・鼻・舌・身・意の六処に影響を及ぼす働きをもつことから、物事を知り分ける識別作用の働きをいいます。私達の識の中には、前世の業=行為が、輪廻した魂の潜在意識の中にあると思われます。前世に悪業をなした人は、現世の識も無明の識と言えます。このような人達は、過去世からの無明の識を背負ったままのスタートとなり、これに現世の業=行為が積み重なります。
私達人間には、眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの器官があります。そのうち、体の部分である眼・耳・鼻・舌・身の五官を、普通感覚と呼びます。そして、心の部分の「意」を知覚と云います。
私たちの生活は、この普通感覚と知覚の働きが互いに関連することにより生活ができるわけで、『識』と、4.『名色』、5.『六処』、6.『触』が、複雑に依存し合い、さまざまな人間の行動をさせているのです。
このように心が発達するにつれて、7.『受』が生じます。環境や価値観の違いから、ものの受け取り方や感じ方が違ってきます。主観と感受性の相違が生まれてきますが、これは過去の経験から生じてくると云われています。

このように、名色・六処・触が複雑に関わり合って、好き、嫌きらいなどの苦楽の感情が生まれてくると、自然に8.『愛』が起こります。ここでいう愛は、執着心と考えとらわれる心だと解釈してください。
仏様も、比喩品第三の中で、《諸苦の所因は貪欲これ本なり》と仰せです。《もろもろの苦の原因は、貪欲が本となっている》という意味です。
貪欲と言うのは、自分の欲望にまかせて執著する心を指します。
このように、好き・嫌きらいの苦楽に対する考え方が激しいほど、極端に相手に対しての愛・憎の感情が強くなります。
執著心の強い人は『愛』を感じて、自分のものにしたいとか、放したくないと考えます。
この心が9.『取(しゅ)』です。これは、愛憎の心から起こる強い取捨選択の心です。
仏様が、前記と同じく法華経の比喩品第三の中で、《深く愛欲に著せる、此れ等を為っての故に苦議を説きたもう》と説かれて、《悪行悪徳の原因を除かなければ、人間は幸せになれない》とハッキリ仰せです。
『取』があると、人間はそれぞれの考えや主張がでてきます。それが10.『有』です。有とは、自己中心の心がもたらす差別・区別の心です。好きなものには親しんで、気に入らないものや嫌いなものは排除するのが、人間世界の姿です。
こうした差別心は、人間に対立や争いを起こします。争いや対立は苦しみを伴います。このように苦しむ人生を11.『生』と云います。
そして目先のできごとで喜んだり、悲しんだり、苦しんだりして生きているうちに、12.『老死』を迎えるということになります。
以上が心の動きを中心とした十二因縁の説明です。十二因縁の教えを、私たちは自分の人生に生かし、自分自身のあり方を考えることも大事であると思います。

◎六波羅蜜とは
この世に生かされたまま、仏様の境涯に到るための六つの修行をいいます。波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)に到ることです。

1. 布施波羅蜜 – 分け与えること。具体的には、財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施は(仏法について教える)などの布施。
2. 持戒波羅蜜 – 戒律を守ること。在家の場合は五戒(もしくは八戒)を出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。
3. 忍辱波羅蜜 – 耐え忍ぶこと。
4. 精進波羅蜜 – 努力すること。
5. 禅定波羅蜜 – 特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。
6. 般若波羅蜜 – 全ての事物や道理を見抜く深い智慧のこと。
 1~5の五波羅蜜は、6.の般若波羅蜜を成就するための階梯と位置付けられるもので、最終的には、般若波羅蜜を希求することによって調御、成就される。

◎摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄  舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是  舍利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減  是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界  無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故  菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃  三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提  故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚  故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経

観自在菩薩が座禅をして般若の境地に入っていたとき、この世のすべてのもの(五蘊=色・受・想・行・識)は、ほんらいの実体がない空であると気づき、あらゆる苦しみから解放された。

舎利弗よ。この世のなかで、形ある存在(色)は実体がなく空にほかならず、空は形ある存在(色)にほかならない。
つまり、形のある存在(色)も互いに依存しあいながら仮になりたっているのだから空であり、空である存在は見方を変えればすべて形ある存在(色)なのである。また、感覚(受)・想念(想)・意志(行)・識(知識)という心のはたらきも同じように空である。

舎利弗よ!このように、この世のすべてのものは、その本質において実体がなく空である。
だから、すべてのものは生じることも滅びることもなく、汚れることも浄らかになることもなく、増えることも減ることもない。

この世のすべてのものは空であるから、形ある存在 (色) もなく、感覚 (受)もなく、想念(想)もなく、意志(行)もなく、識(知識)もないのである。また、眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もないので、これらの対象である、形ある存在(色)もなく、音声(声)もなく、香り(香)もなく、味(味)もなく、感触(無)もなく、意識(法)もない。
つまり、視覚の世界や意識の世界というものはないのである。

迷いのもととなる無知がなければ、その無知が尽きることもない。また、老いと死がなければ、老いと死が尽きることもない。苦集滅道という四諦もなければ、悟りへの智慧もない。そして、悟りによって得られるものもない。なにかを得るということがないからである。

菩薩は、完全なる智慧によって、心をおおうものがなく、心をおおうものがないから、恐るるものがない。すべての誤った心から遠いところにあり、永遠の平和の境地に入っているのである。

過去・現在・未来のすべての仏たちも、完全なる智慧によって、完全なる悟りの境地を得ている。

それだから、人々はよく知っておくべきである。完全なる智慧とは、偉大なる呪文であり、光輝ある呪文であり、最高の呪文であり、比類なき呪文であり、あらゆる苦しみを取り除くことができる。これは紛れもない真実である。

それでは、完全なる智慧にいたる呪文を教えよう。その呪文は次の通りである。
「ぎゃてい ぎゃていはらぎゃていはらそうぎゃていぼじそわか」
ここに完全なる智慧にいたるお経を終える。

◯十善戒:仏教の戒律
・身業
不殺生 故意に生き物を殺さない。
不偸盗 与えられていないものを自分のものとしない。(ふちゅうとう)
不邪淫 不倫など道徳に外れた関係を持たない。
・口業
不妄語 嘘をつかない。
不綺語 中身の無い言葉を話さない。
不悪口 乱暴な言葉を使わない。
不両舌 他人を仲違いさせるようなことを言わない。
・意業
不慳貪 激しい欲をいだかない。(ふけんどん)
不瞋恚 激しい怒りをいだかない。(ふしんに)
不邪見 (因果の道理を無視した)誤った見解を持たない。

いろいろとネットから文章拝借させていただきました。
仏教を少しでも多くの人に知ってもらうがゆえ、ご容赦くださいm(_ _)m

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